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2008年1月18日 (金)

真冬の北海道神宮の散策 篇 ⑦

東側の順路沿いに露店が立ち並んでいる様子。初詣時とあまり変わらない賑やかさだった。
は「北海道神宮茶屋へ向かうため完全スルー。
北海道神宮の『神門』及び『手水舎』付近にある島判官の像
これまで何度か説明したが、今回改めて島義勇の人となりを紹介しましょう。
「島判官」こと島義勇(しま よしたけ 1822−1877)佐賀藩(現・佐賀県)の藩士出身で、明治時代の顕官・政治家。1830年から藩校「弘道館」や1844年に家督を継いだ後は諸国を遊学したりと、青年期は知識と見聞を広げることに日々を費やす。
帰国後は佐賀藩主・鍋島直正に登用されて藩の要職を勤め、主君の鍋島が蝦夷開拓総督や初代開拓使長官になるのに伴い、蝦夷地(北海道)探検の経験とその知識を見込まれて開拓使主席判官に就任し、北海道の開拓、特に道都・札幌の造営に貢献。
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1869年に未開の地であった札幌に「五州第一の都(世界一の都)」を造るという壮大な構想をぶち上げ、同年7月に開拓使判官に任命されてから、10月から京都や故郷・佐賀城下町などを参照とし、整然とした「碁盤の目」状の街並みの都市計画の建設を進め現在ある全国第5位の約187万人都市・札幌市の基礎を成した功労者である。
その際、北海道開拓の安全祈願の為、明治天皇の詔により東京で盛大に祀られた北海道開拓の守護神「開拓三神」の御霊代を背負って札幌入りし、札幌神社(現・北海道神宮)の鎮座地をここに定めたことでも知られる。
しかし、その強引な手法と度重なるアクシデントや苛酷な環境等により予算を使い果たした為に、その責任を負わされる形で翌年1月に解任。
罷免後、秋田県の初代権命(知事)などを歴任したが、1874年に江藤新平らと佐賀の乱を起こし敗北、斬首される。
死後、赦免されて佐賀の七賢人”の一人、あるいは「北海道開拓の父」「開拓の神」として後世の人々に讃えられる。
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北海道神宮では、「北海道開拓」「北海道神宮創祀」の功労者として毎年、命日の4月13日に「島判官慰霊祭」が催されている。
また、北海道神宮の境内にある同神宮の末社【開拓神社】には御祭神「北海道開拓の功労者 三十七柱(37名)」の一人として祀られている。
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北海道の人々には「判官さま」という愛称で親しまれ、同神宮の境内にある参拝者休憩所「北海道神宮茶屋で無料提供している【六花亭】のお菓子(餅菓子)の名前にもなっている。
高さは10メートルぐらいあるだろうか。実際は写真から想像していた以上に大きいものだった。
しかし、島義勇の青雲の志や偉大さを表すのに十分な銅像だと思う。
前回(1月2日初詣)の記事でも紹介した手水舎
同神宮の祭神でもある明治天皇が作者の和歌が手前に掲げられている。
ご覧の通り、手を清めている参拝者が多かったが、今回は流石に自重した(笑)
先ほど(午前10時過ぎ)に来た時よりも、参拝者の数がかなり増えていた。

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